秋山祐徳太子・美濃瓢吾「ブリキ男と招き男」

7/3(火) - 7/22(日) 7/9(月)・7/16(月)休廊  12:00 - 19:00(最終日17:00まで)

7/7(土) 18:00〜 鈴木常吉さんのコンサート
展示風景
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『逃亡する赤飯』

 母が云う「いやだねえ、あの子は、ふとんの代わりにブリキ板をかけているよ」。我が家に泊まって行った美濃君、見ればブリキ板のあちらこちらに富士山を型抜いた穴がいくつもあった。その穴から美濃君の寝息が響いて来る。時々打楽器のようなオナラの音、母と私は笑いをこらえきれず、美濃君を起こしてしまった。初夏の薫りが笑いながら通り抜ける季節だった。母が元気だった頃の思い出である。
 時も去り母も去り、新築になった我が団地には、友人達が連日泊まりにやってくる。そんな折美濃君は赤飯を持ってやってきた。運を招く男という定評がある。朝みんなで食べようと探したが一向に見つからない。三日たった朝、枕の下からペチャンコになった赤飯が、ブリキ板のようになって見つかった。
 赤飯も我々には食べてもらいたくなかったのだろう。しかし、運を呼ぶ赤飯として今も効力を発揮している。美濃力である。

秋山裕徳太子
1935年東京に生まれる。60年武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)彫刻科卒。卒業後、工業デザイナーとして大手電機メーカーに勤務。65年岐阜アンデパンダン・フェスティバルに自分自身を出品。以後、ポップ・ハプニングと称し、金太郎、グリコなど動くポップ・アートを行う。政治のポップ・アート化を目指し、東京都知事選に立候補。73年東京・ガレリア・グラフィカで初個展、その後、全国各地で開催。86年パリ・ポンピドー・センター「前衛の日本展」に出品、94年池田20世紀美術館で回顧展を開催。著書に『通俗的芸術論』『泡沫桀人列伝』『ブリキ男』
『泡沫旅行』

 三年前の師走、兵庫県浜坂でのことだ。約束の時間にはまだ早い。二人して駅前のうどん店で玉子とじを注文し体を温めた。そういうことなら秋山さんが得意とする女主人とのテンポのいい母性的会話を楽しんだあとは町の温泉へという手もある。しかし「湯冷めする」と秋山さんは体を気づかい、店を出ると結局、散策となった。
 黒塀の続く漁師町の或る狭い四ツ辻まで来ると小さなセメントでかたどられた赤い鳥居と祠に出会した。散策のクライマックスは早々に訪れた。接近し、じいっと見入っていた秋山さんは「うーん、これはいい、これはいい」を連発。そして「一坪美術館、一坪美術館」とオマジナイのように復唱する。「何か見えますか」、私もつい尋ねてしまう。すると何処から飛来したのだろう。四ツ辻の歓呼の肉声は泡沫たちをも呼び寄せた。例のあれだあの光。母なる泡沫、泡沫童子のマジックショー。確かに光った。
 だからこの日の出し物はオマケがついた。四ツ辻からすぐのところに画廊まで見つかった。ブリキの看板には「ゆうちゃんギャラリー」とある。これも泡沫の仕業だろうか、いやそうに決まっている。万能なのだ。

美濃瓢吾
1953年大分県に生まれる。画家。立教大学経済学部経営学科卒業。出版社退職後、画家平賀敬に師事。三十代を浅草木馬館で過ごす。ピーナッツや丸煎餅を売る傍ら、福助・招き猫・大入看板画といった、いわゆる「祝額」を描く。最近では「浅草人間絶景論」と銘打ち、近未来の活人画(人間マジック)または見世物もどき浅草版「洛中洛外図」世界へと筆を進める。
さらに仲間たちと「行商美術」を名乗り全国津々浦々を美術徘徊。著書に『浅草木馬館日記』(筑摩書房)、「逐電日記」(右文書院)、絵本「あいうえおばけのおまつりだ」(絵・長崎出版)がある。