尾崎愛明展
9/18(火) - 9/30(日) 9/24(月)休廊 12:00 - 19:00(最終日17:00まで)
豊饒の海または津波
1994年、長年捜し求めていた菊の花びらの形をした、オリジナルな素粒子ともいうべきものを発見した。その集積が、森羅万象のそれぞれが放つエネルギー現象を、象徴的に表現出来ると確信して仕事をすすめてきた。それは例えば森や銀河や風や水を表してきた。
2008年、かねて用意してあった白い屏風に、その花びらの形をした素粒子を水に見立てて大きな波のうねりの絵を描いた。それは今迄の私の表現よりも装飾性と具象性の強いものになったが、大きな月と青い波と、その間を流れてゆく棺を模した立体を描き込んだ。月の波(葬送)と題した。私のその時の枕屏風という仕立てだ。
その屏風が完成したあと、150号のパネルを用意して、それが最後になるかも知れない大作の個展を目論んだ。「琳波」というタイトルを立て、全作品を波をモチーフにした個展にしようと計画した。それは装飾的だが、豊かなタブローが揃う個展をイメージしていた。
2009年8月、150号に生命の誕生するエネルギーに満ち、海の幸のあふれる荒々しい大波の絵を描きはじめた。画題を「豊饒の海」と決めた。この150号は、私にとって最後の大作になるだろうと覚悟していた。途中ガンの再発と肺炎という大病と、その後遺症のために仕事はたびたび中断し遅々としていたが、イメージは順調に実っていった。体力のおとろえとは逆に、150号の絵は思いどうりに、ゆっくりとすすんでいった。筆は逡巡することなく、その結果を自分のイメージが追いかけるような楽しい気分を経験していた。私には珍しく色彩にあふれたダイナミックな作品になっていった。それは今迄にない手ごたえを感じている毎日で、作品の完成は80パーセント見えてきていた。
2011年3月11日午後2時46分。そのとき私はアトリエにいて、完成が見えて来ていた150号のパネルにとりついていたが、いつもの慣で、その瞬間は、ゆれるのに身をまかせ、そのゆれのやむのを待つ気分でいた。ところが、いつもとは違うゆれの、ながさと激しさに、次第に不安がよぎり、それがいつまで続くのか、どうしたらいいのか判断もつかず、身も心も完全に無力の状態に陥っていた。そのうちに目の前の壁にくくりつけの本棚がゆさゆさと壁からはがれ落ちて、アトリエの床一面が本で埋めつくされてしまった。150号のパネルは重いためか、壁から動くことはなかったが。
それから連日、津波の言語に絶するテレビの映像を見せられる。
不思議なことが起こった。
私の150号の絵面は何も変わっていないのに、その日以来私に対してその表情が一変してしまった。豊かな冨を抱く豊饒の波という私の意図に関係なく、私の脳裏に打ち込まれたテレビの映像が、大波イコール津波、というイメージに変化させられ、私の絵が荒れ狂う津波の絵としか見えなくなってしまった。画面は作者の私をうらぎって、オブジェクトとしての強さ、すなわちレアリティーを持つダブルイメージを内包発散する重い絵になったように、どうしても見えてしまうのだ。
この世の無常が、絵の上にも同じように現れたのだが、他の人はどう感じるのだろうか。
2012年7月(79才)
尾崎愛明
1994年、長年捜し求めていた菊の花びらの形をした、オリジナルな素粒子ともいうべきものを発見した。その集積が、森羅万象のそれぞれが放つエネルギー現象を、象徴的に表現出来ると確信して仕事をすすめてきた。それは例えば森や銀河や風や水を表してきた。
2008年、かねて用意してあった白い屏風に、その花びらの形をした素粒子を水に見立てて大きな波のうねりの絵を描いた。それは今迄の私の表現よりも装飾性と具象性の強いものになったが、大きな月と青い波と、その間を流れてゆく棺を模した立体を描き込んだ。月の波(葬送)と題した。私のその時の枕屏風という仕立てだ。
その屏風が完成したあと、150号のパネルを用意して、それが最後になるかも知れない大作の個展を目論んだ。「琳波」というタイトルを立て、全作品を波をモチーフにした個展にしようと計画した。それは装飾的だが、豊かなタブローが揃う個展をイメージしていた。
2009年8月、150号に生命の誕生するエネルギーに満ち、海の幸のあふれる荒々しい大波の絵を描きはじめた。画題を「豊饒の海」と決めた。この150号は、私にとって最後の大作になるだろうと覚悟していた。途中ガンの再発と肺炎という大病と、その後遺症のために仕事はたびたび中断し遅々としていたが、イメージは順調に実っていった。体力のおとろえとは逆に、150号の絵は思いどうりに、ゆっくりとすすんでいった。筆は逡巡することなく、その結果を自分のイメージが追いかけるような楽しい気分を経験していた。私には珍しく色彩にあふれたダイナミックな作品になっていった。それは今迄にない手ごたえを感じている毎日で、作品の完成は80パーセント見えてきていた。
2011年3月11日午後2時46分。そのとき私はアトリエにいて、完成が見えて来ていた150号のパネルにとりついていたが、いつもの慣で、その瞬間は、ゆれるのに身をまかせ、そのゆれのやむのを待つ気分でいた。ところが、いつもとは違うゆれの、ながさと激しさに、次第に不安がよぎり、それがいつまで続くのか、どうしたらいいのか判断もつかず、身も心も完全に無力の状態に陥っていた。そのうちに目の前の壁にくくりつけの本棚がゆさゆさと壁からはがれ落ちて、アトリエの床一面が本で埋めつくされてしまった。150号のパネルは重いためか、壁から動くことはなかったが。
それから連日、津波の言語に絶するテレビの映像を見せられる。
不思議なことが起こった。
私の150号の絵面は何も変わっていないのに、その日以来私に対してその表情が一変してしまった。豊かな冨を抱く豊饒の波という私の意図に関係なく、私の脳裏に打ち込まれたテレビの映像が、大波イコール津波、というイメージに変化させられ、私の絵が荒れ狂う津波の絵としか見えなくなってしまった。画面は作者の私をうらぎって、オブジェクトとしての強さ、すなわちレアリティーを持つダブルイメージを内包発散する重い絵になったように、どうしても見えてしまうのだ。
この世の無常が、絵の上にも同じように現れたのだが、他の人はどう感じるのだろうか。
2012年7月(79才)
尾崎愛明
尾崎愛明
- 1933
- 7月21日東京根津に生まれる 愛明は本名ヨシトシと読む
- 1940
- 下谷区忍岡小学校入学 上野の山と不忍池が遊び場
- 1944
- 福島県猪苗代に集団疎開 軍国少年教育を受ける
- 1945
- 終戦帰京 文京区千駄木に転居 教科書に墨をぬらされる
- 1949
- 都立上野高校に入学 美術部ではじめて油絵をかく
- 1952
- 東京芸大の受験に失敗 蕨画塾に通う
- 1953
- 一浪して東京芸大に入学 教室で油絵の勉強をせずデザインの技術を独学する
- 1954
- 喀血して半年結核の自宅療養生活
- 1957
- 卒業してデザインで生計をたてる
- 1959
- 同窓生同志のグループ新表現主義から入会を誘われる
- 1962
- 4月古畑妙子と結婚 赤羽に住む
- 1965
- 友人鶴岡弘康の設立した広告制作会社創美企画に入社 12月息子玄一郎誕生
- 1988
- 創美企画定年退職
- 1994
- 朝日カルチャーセンター千葉にて油絵教室講師
- 2000
- 10月悪性リンパ腫を発症 駒込病院に入退院する
- 2004
- 10月再発して駒込病院にて治療
個展
グループ展
パブリックコレクション
池田20世紀美術館
佐久市立近代美術館
東京都現代美術館
市川市
- 2012
- 第15回個展 「豊饒の海または津波」千駄木・GALLERY KINGYO
- 2005
- 第14回個展 「amorphous・works 1995-2005」京橋・村松画廊
- 1999
- 第13回個展 「works 1993-1999」ギャラリー銀座一丁目
- 1998
- 第12回個展 「amorphous」青山・始弘画廊
- 1995
- 第11回個展 「ナノ・ドラドから」青山・始弘画廊
- 1994
- 第10回個展 銀座・清月堂
- 1993
- 第9回個展 尾崎愛明の世界展「エロスとタナトスの博物誌」伊東・池田20世紀美術館
- 1990
- 第8回個展 「ピンク色の博物誌」上野・スペース・ニキ
- 1985
- 第7回個展 「単旋律的エロス」上野・スペース・ニキ
- 1981
- 第6回個展 「変容と還元の形態・EROS多肉植物系」青山・ギャルリーワタリ
- 1978
- 第5回個展 「変容と還元の形態・鳥・女・花」青山・ギャルリーワタリ
- 1975
- 第4回個展 「変容と還元の形態EROS」青山・ギャルリーワタリ
- 1970
- 第3回個展 「変容と還元の形態」銀座・村松画廊
- 1966
- 第2回個展 「変容と還元の形態」銀座・ルナミ画廊
- 1964
- 第1回個展 銀座・ルナミ画廊
グループ展
- 2000
- CONTEMPORARY ART 新世紀へのmessage(銀座・井上画廊)
JAPAN CONTEMPORARY ART in AMSTERDAM(Dezaajer) - 1999
- 美の世界「非日常・エロスの世界・画家尾崎愛明」(日本テレビ放映)
絵は風景(読売新聞掲載) - 1990
- ポストコレクション(週刊ポスト)
- 1987
- 屏風絵6人展(上野・スペース・ニキ)
- 1985
- 新表現展-8人の鬼才たち-(伊東・池田20世紀美術館)
- 1983
- 第26回安井賞展(池袋・西武百貨店)
- 1982
- 朝日新聞紙上創作展「おんな」
Sept.NINE展(京橋・シマダ画廊)
新表現展1982(銀座・セントラル美術館) - 1981
- 私のマニフェスト'81展(仙台市民ギャラリー)
幻想の絵画展(横浜市民ギャラリー) - 1980
- 東京都美術館新収蔵作品展(東京都美術館)
- 1979
- 新表現展1979(銀座・セントラルアネックス)
- 1976
- 今日の精鋭120人展(銀座・セントラル美術館)
- 1975
- ポストコレクション(週刊ポスト)
- 1969
- 第9回現代日本美術展(東京都美術館)
第5回国際青年美術家展(池袋・西武百貨店) - 1968
- 環境ゲーム審議会展(銀座・村松画廊)
第8回現代日本美術展(東京都美術館) - 1967
- インテリアオブジェ展(日本橋・秋山画廊)
- 1963
- 第3回新表現展(新宿・椿近代画廊)
- 1961
- 第2回新表現展(銀座・村松画廊)
- 1960
- 第1回グループ新表現展(銀座・村松画廊)
- 1956
- 4人展 銀座・サトウ画廊
パブリックコレクション
池田20世紀美術館
佐久市立近代美術館
東京都現代美術館
市川市